そもそも「責任」とは何か?
ビジネスの文脈において、「責任を取る」という言葉は、たいてい次のように理解されています。
- 業務を引き受けること
- 結果に対して説明責任を果たすこと
- 判断の結果を引き受けること
つまり、責任とは
義務・役割・結果への対応
として語られることがほとんどです。
それは確かに間違いではありません。
しかし――本当に、それだけなのでしょうか。
哲学者の視点①

「責任を取るとは、未知の手綱を握ることです。」
この問いを考えるとき、私はまず「責任」という名詞ではなく、
その前にある動詞に目が向きます。
私たちは
責任を「取る」。
あるいは、取らない。
表面的には責任を取っているように見えても、
実際にはそうしていない場合もあります。
だからこそ、「本当に責任を取るとは何か?」という問いが生まれるのです。
責任を取るとは、
意図的にリスクに身をさらす決断でもあります。
あるプロジェクトの責任を取るということは、
成功すれば称賛を受け、
失敗すれば非難を引き受ける立場になるということ。
そこには、事故や想定外の出来事、
そして時に、痛みを伴う罪悪感も含まれます。
けれど同時に、
責任を引き受けることには、
主体性と力強さも伴います。
結果がどう転ぶか分からないまま、
それでも自分が舵を握る。
その感覚は、恐れと同時に、
所有感や統制感をもたらします。
責任を取るとは、
外から押しつけられた義務をこなすことではありません。
それは、自ら進んで関わるという意思表示であり、
引き受けた重さを「自分のもの」とする行為です。
そこでは、外的な義務が
内的な道徳的責任へと変わります。
そして重要なのは、
責任とは「今この瞬間」だけのものではないということ。
過去の行為に応答し、
現在を引き受け、
必要であれば未来に向けて修復する。
責任とは、時間を通じて応答し続ける能力と意志なのです。
責任を取るとき、私たちは
一つの約束をするとも言えます。
だからこそ、
自分の責任の範囲をどこまでとするのか、
誰と分かち合うのかを明確にすることが不可欠です。
それによって初めて、
自分自身がその責任に耐えられるかどうかが分かり、
同時に、他者も「どこまで信頼できるのか」を判断できるのです。
哲学者の視点②

責任という言葉を考えるとき、
私はその語源に立ち返ります。
「責任(responsibility)」とは、
もともと
「応答する能力」「答えることができる性質」
を意味していました。
「責任を取る」という表現が使われるとき、
それはしばしば、
「自分がどのように応答したのかを認めなさい」
という要請を含んでいます。
過去に何をし、
なぜそうしたのかを、
誠実に、透明性をもって語ること。
その意味で責任を取ることは、
ごまかしのない正直さだと言えるでしょう。
ただし、ここには注意も必要です。
私たちは、
自分の意思や選択が関与していない出来事まで
責任として引き受けてしまうことがあります。
本来自分ではどうにもできなかったことに対して
責任を感じ続けることが、
多くの苦しみを生んでいるとも思います。
私にとって、
より本質的で興味深い責任のあり方は、
未来に向かう責任です。
それは、
「原因の一つになる」ことではなく、
その出来事の“担い手”になるという覚悟。
成功も失敗も含めて、
その結果の重さを引き受ける。
そうしてなされる選択は、
単なる判断ではなく、
自分の意思が世界に刻まれる行為になります。
この意味で、責任を取るとは、
「どのように世界に関わって生きるのか」を
意図的に選び取ることなのだと思います。
編集後記|責任とは「重荷」なのか、それとも
ジャンヌとカイル、
二人の哲学者の言葉から浮かび上がるのは、
見過ごされがちな一つの事実です。
責任とは、
単なる役割や業務、結果処理の話ではありません。
それは、特にリーダーにとって、
不確実性と時間の流れの中で、自分をどこに位置づけるのかという問いです。
責任とは、
言葉であり、
勇気であり、
そして
「自分のものとして引き受ける物語」なのかもしれません。
もしかすると、責任とは
背負うべき重荷ではなく、
*見つけ出すべき“声”**なのではないでしょうか。
この連載について
Purpose|目的
読む人が、思わず立ち止まり、考えてしまう場所をつくること。
この連載では、
責任・自由・多様性・テクノロジー などのテーマを通して、
常識的な理解を揺さぶる哲学的視点を紹介していきます。
問いは、すぐに答えを出すためではなく、
思考を深め、世界の見え方を更新するためにあります。